「当たり前」をつくる

同じ(コロナ前)メンバーばっかり飲み会に来る

こんにちは。CONCUBEの垣内です。

CONCUBEは教育の会社なので、教育について書きたいと思います。

 

教育とは・・・問いとか、何のために・・・とか、教育の意味については

人それぞれ、千差万別な答えがある中で、僕が思う教育とはの解答の内のひとつ。

(実は解答がいっぱいあるのですが、そのうちの一つです)

「当たり前の基準を上げる」

だと思います。

頑張った。という言葉、感覚。

人によって全然違う。うちの生徒でも同じ「頑張った」でも生徒によっての意味合いの違いは大きい!

先生聞いてー。おれ昨日メチャメチャ勉強「頑張った」

と言ってくる生徒。

ほんまかー!偉いなー!どれくらい頑張ってん!?

「昨日おれ30分も勉強してんー!」

ていう生徒。

一方で、

「先生ちょっとヤバイわー。おれ全然勉強出来てない、、、。昨日休みやったからメッチャ勉強しようと思ったけど、5時間しか勉強できなかった、、、もっとがんばらなあかんわ、、、」という生徒。

どっちも真実。どっちかが嘘ついてるってことはない。

「30分も勉強した。」も真実だし、「5時間しか勉強できてない」も真実。

努力の当たり前の基準が違うだけ。

教育とは特定のスキルを鍛えることではなく、この「努力の当たり前」の基準をあげてあげること。

教育者が直接的に干渉できる時間は圧倒的に短い中で干渉している時間だけ影響したところで生徒に対する影響はたかが知れている。

努力の基準をあげてあげることで、干渉していない時間の成長を促進できる。

これが教育の価値。

大人も同じだけど、もうちょっと複雑。

大人の教育はこの努力の基準をあげるという価値感の設定にくわえて、難しいプロセスである、現状否定が必要。

「今のあなたの価値観は間違っていますよ」ということに腹落ちしてもらわないと、新たな価値観設定は困難ですが、いままでの価値観を否定するのはかなり辛い。よほどのインパクトが無い限り、腹落ち出来ない。

なので大人の価値観の再設定にはタイミングがめちゃくちゃ重要。この話はまた別の機会に・・・

 

 

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